池井戸潤「鉄の骨」

講談社文庫 池井戸潤「鉄の骨」表紙_[0]

【メモ】

・何の変哲もない四角い六階建てのビルに、その見かけからは到底想像しきれない、それぞれの物語や夢が詰まっている。本小説のメインのお話は全然そんな話では無いけれど、根底に流れるストーリーはそういうことなのかな、と。

・”正しいことばかりが正しいわけじゃない。かといっていい加減なことをしてそれでいいってものでもない。” 大人ならば、誰でも一度は考えさせられたことがあるであろう、「正しさ」と「その基準」についての「現実」。結局のところ、全ては自らの中にあるというメッセージ。

・人にはそれぞれの事情があり、世の中には色々な人がいて、その中で「一生懸命生きる」、ということがどういうことなのか、いかに素晴らしいことか、池井戸潤は、そういったことを表現したいのだと思う。

・自らの人生を自分なりに一生懸命生きる、「かっこ良い大人」が何人も出てきます。

・仕事好き、人間好きの方にオススメの一冊です。

 

【本文書き出し】

”第一章 談合課

午後から降りだした雨は、土砂降りに変わった。

「まずいな」

工事現場に作られた仮設事務所、そこに一台だけある小さなテレビで天気予報をチェックしていた所長の永山徹夫が呟いたのは、昨夜午後十時過ぎのことである。春の嵐だ。

今年五十五になる永山は、五十前にして離婚して以来やもめ生活を続けている、定年間近の男だった。薄くなった頭に陽に焼けた顔、厳つい風体、作業服を着てパイプ椅子でなぜか胡座を掻き、酒の入ったコップを握りしめている図は、建設現場の所長というより現場作業員といったほうがぴったりくる。作業に従事するわけでもないから背広を着てきても構わないはずなのに、「俺はこのほうがしっくりくる」という永山は、作業服以外の姿をめったに見せたことはなかった。

仕事があらかた片付いた後、永山に「付き合え」といわれて酒を飲んでいた富島平太は、ザアッと吹きつけてくる雨の音を聞くたび、何度も暗い窓を振り返った。

テーブルの上には、半分空になった一升瓶と柿ピー、それにせんべいが散らかっている。せんべいは、信州上田にある平太の実家から届いたものだ。母は、職場の方にいつも世話になっているからと、りんごや梨、ぶどうなどの果物をしょっちゅう送ってくるのだが、季節がズレて特産物がなくなると、意味もなくせんべいなどの乾き物に変わる。気を遣わなくていい、といくらいっても聞く耳持たずで、田舎からの段ボール箱は二ヶ月に一度のペースで送られてきた。平太の実家は兼業農家だが、母は勤めの経験がない。朝それを抱えて通勤電車に乗る者のことなどこれっぽっちも考えていない、というか想像もつかないのだ。

「こりゃあ明日、困ったな、テッちゃん」

そういって顔をしかめて見せたのは、下請け工事業者社長の安岡である。安岡は永山と古くからの付き合いで、永山が手がけるマンションには大抵、下請け業者として出入りしていた。発注元と下請けというより、長年の友達のように言葉遣いも馴れ馴れしい。永山にしてみれば仕事ぶりのわからない新規業者を使うより、長年付き合ってきてお互い気心も知れている相手を選んだほうが安心なのである…”

 

【表紙及び冒頭5ページ】

講談社文庫 池井戸潤「鉄の骨」表紙_[0] 講談社文庫 池井戸潤「鉄の骨」本文1_[0] 講談社文庫 池井戸潤「鉄の骨」本文2_[0]

講談社文庫 池井戸潤「鉄の骨」本文3_[0]講談社文庫 池井戸潤「鉄の骨」本文4_[0] 講談社文庫 池井戸潤「鉄の骨」本文5_[0]

 

【基本データ】

講談社文庫

2011年11月15日初版発行

池井戸潤「鉄の骨」

ISBN978-4-06-277097-2

吉川英治文学新人賞受賞

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池井戸潤「空飛ぶタイヤ(上)」、「空飛ぶタイヤ(下)」

講談社文庫 池井戸潤 空飛ぶタイヤ 表紙_[0]

【メモ】

・走行中のトラックのタイヤが外れる「事故」が起こり、主婦が死亡。創業40年、従業員90人の中堅運送会社 赤松運送は、一夜にして「加害者」になる。

・一生懸命に人生を生きる「人間の姿」が良いです。池井戸潤さんは、社会、企業、組織といったフレームを上手く組み合わせて、その中で「人」を描写するのがとても上手だと思います。文章もとても読みやすい。

・分野や規模にかかわらず、全ての人生には、本質を同じくする「責任」というものが存在していると思います(例えばそれは、仕事の世界のみに限らず、「家庭」の中にも同様のものが存在していると思います)。その「責任」としっかりと向き合う人の姿というのはとても美しく、素晴らしい。池井戸潤さんは、そういったものを描写したいのではないかと。

・大組織に所属している人も、そうでない人も、仕事が好き、人が好き、という人はこの手の話、好きなんではないでしょうか。斯く言う僕も大好きで、池井戸潤さんの小説、「鉄の骨」で出会ってからわずか2ヶ月位の間に、刊行済みのものは全て一気に読んでしまいました。

 

【本文書き出しより(上)】

”序章 決して風化することのない、君の記憶

君は、静かな人でした。

にぎやかなお酒の席で、自分からは騒ぐことはないけど、いつも楽しそうにニコニコしながら、冗談いっている友達を見てる。幸せそうな君を見ていると、ぼくまで満たされた気分になったものです。

ぼくが悩んでいるときは、いつも一緒にいてくれた。つらいときには映画に誘ってくれた。「がんばってね」っていうんじゃなくて、沈んでいる僕の手をずっと握って寄り添ってくれる。そんな温かい人でした。

ぼくは今も、そんな君が大好きです。

いつだったか、公園で紙ヒコーキ飛ばしたの覚えてますか?

結婚したばかりの頃でした。ほら、あの頃住んでいたマンションの近く、高台にあった公園。新聞の折り込み広告でつくった紙ヒコーキを飛ばしました。

遠くへ飛ばそうと、君もぼくもがんばったのに、なかなか飛ばなくて大笑い、それなのに、どういう拍子か、君のヒコーキが風にのって、遠くまで飛んで見えなくなって—。

「飛んだ、飛んだ!」

あのときの君の歓びようといったらありませんでした。そして—。

そして、君はこういいました。

「私たちも、あんなふうに遠くへ飛べるかな」

あのとき見せた君の笑顔は、僕の宝物です。

永遠の宝物です。なのに—。

僕が駆け付けたとき、君は病室の白いシーツに包まれて横たわっていました。

「ママ、寝てるの?」

タカシにきかれて、ぼくはそのちっちゃな手をシーツの中の君の手に重ねました。

「あったかいだろう」

タカシは何かを察したのか、じっと僕を見上げ、それから君の横顔を見つめます。失われていく君の体温が冷めないうちに、ぼくもその手のひらに手を添えました。

「これがママの手だよ。ずっと忘れちゃいけない、ママの温かさだ。おまえとパパの大切な、大切な・・・・・・ママだ」

タカシは君の頬に顔を寄せて、頬ずりして泣きました。だけど、君のその手がタカシを撫でることはもう決してありません。決して・・・・・・。

「なに泣いてるの、タカちゃん」

君がいまにも目を開けて、そう言うのではないかと思ったけれど、そんな奇跡は置きませんでした。

生きているような君の横顔をはっきるとこの目に焼き付けたいのに、止めどなく溢れる涙でぼくの視界は滲んでしまいました。

なんて悔しいんだろう。なんて悲しいんだろう。

やさしかった君。いつも微笑んでいた君。ぼくとタカシのことを愛してくれた君—。

君のことを決して忘れない。いつでもぼくたちは一緒です。

ずっと一緒です。

さよならは言わない。

君のこと、愛してる。”

 

”第一章 人生最悪の日々

何がビューティフルドリーマーだ。

赤松徳郎は毒づいた。

この世の中のどこに、そんな夢見るような話がある?

赤松にとって人生は、辛く長い坂道の連続だった。若い頃だったら夢と呼べるものがなかったわけではない。だが今、その夢の記憶さえ霞んでしまうほど、厳しく容赦ない現実が我が身に降りかかってきている。

通夜の帰り道だ。

菊名駅から乗った東急東横線の急行電車に赤松は揺られていた午後十時を過ぎた上り電車は空いていて、反対側のガラス窓には、小難しい顔をして腕組みしている…”

 

【表紙及び冒頭5ページ】

講談社文庫 池井戸潤 空飛ぶタイヤ 表紙_[0]講談社文庫 池井戸潤 空飛ぶタイヤ 本文1_[0]講談社文庫 池井戸潤 空飛ぶタイヤ 本文2_[0]

講談社文庫 池井戸潤 空飛ぶタイヤ 本文3_[0] 講談社文庫 池井戸潤 空飛ぶタイヤ 本文4_[0] 講談社文庫 池井戸潤 空飛ぶタイヤ 本文5_[0]

 

【基本データ】

講談社文庫

平成21年9月15日初版発行

池井戸潤「空飛ぶタイヤ(上)」

ISBN978-4-06-276452-0

池井戸潤「空飛ぶタイヤ(下)」

ISBN978-4-06-276453-7

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