【メモ】
・「庶務行員」というのは「案内係」の腕章をつけて構内でユーザ対応をしているオジサンのこと。こういったポジションに主人公を持ってくる、という発想は、銀行出身の著者だからこそ思いつけること、とも思うし、それと同時に、銀行で一般行員の総合職というポジションを経験していながら、ということを考えると、ここに主人公を持ってくるというのがかなりユニークな発想でもあろうと思う。
・末尾解説を読んでいて気がついたけれど、確かにこの発想、ボクが好きな作家の一人、横山秀夫が書く「捜査しない警察官が主人公の話」とも非常に似通っている。横山秀夫作品と池井戸潤作品を、一時期並行して5冊づつくらい読み続けた時期があったが、それは何かしらの共通点、面白さに気がついていたから、ということもあるだろうし、それと同時に、僕自身「組織の本流を外れることへの憧れ」のようなものを持っていたからなのかもしれない、とか。
・金融業界素人でも全然問題なし。文章は読みやすく、面白い。
・仕事好きな人向けの小説。
【書き出し】
”庶務行員
1
「恋窪さん、ちょっと」
営業課長の中西信士が、青白く長い指先を下に向けて小刻みに揺らす、いかにも苛立たしげな手招きをした。いつものことだ。駆け寄ると、案の定、客に聞こえないような囁き声で小言を言われた。
「駐車場が混雑しそうだから行ってくれませんか。前から言ってるでしょう、そういうことは言われなくても自分の判断でしてくれないと。もうそろそろ仕事に慣れてもらわないと困るんだよね」
「気がつきませんで申し訳ありません。すぐに」
恋窪商太郎は神経質そうに眉間に皺を寄せている中西に詫びて外へ出た。
支店の裏手にある駐車場はビルに挟まれた小さなスペースだ。収容台数は二十五。カギ型になった敷地は、見通しが悪く通り抜けができないため、たまに”大渋滞”を引き起こす。東都南銀行の苦しい台所事情を反映してか、ここには「満車」を示す表示機械も自動ゲートもない。
「ああ、いかん」
外に出るなり、入ってこようとしている車に走り寄って両手でバッテンをした恋窪は、すみませんと頭を下げる。
「満車です。もう少しお待ちいただけますか」
そのとき支店の裏手から客が出てくるのが見えた。茶色いダブル・スーツを着込んだ三十代後半の男。見覚えがある。すぐ後ろから、飛び出してきたのは融資係の松木啓介だ。
「出られますか」
恋窪は松木に声を掛け、右手を入り口で待っている車のフロントの方へ差し出したまま、駐車場の奥に向かって俯き加減にゆっくり歩いていく男に視線を送る。返事はない。間もなく、エンジンがスタートする音が聞こえた。ゆっくりとシルバーのメルセデスがバックで出てきて、向きを買える。その様子を見守っている恋窪の耳に武蔵小杉駅へ入線する南武線か東急東横線の車両が線路を打つ音が届いた。東都南銀行武蔵小杉支店は、その二つの路線に挟まれた狭隘な一角に位置している。
確か、大園という名前だったと、恋窪は思い出していた、茶色いスーツを着た男の名前だ。そうだ、大園ハードフェイシング。三ヶ月ほど前、フロアの案内をしていたときに通帳を預かったことがある。恋窪が東都南銀行の庶務行員という気楽な職を得て間もない頃で、ハードフェイシングという名称からすると、業種はおそらく金属表面加工か何かだろうと思った記憶がある。
よく見かける車だ。一ヶ月に数回、いつも見通しの悪い駐車場奥にパークする。その車がいま恋窪の目の前を過ぎて駐車場の外へ出ていった。
気になることがあった。
「タイヤがえらく減ってますね」
松木と並んで頭を下げ、待たせていた車に今空いたスペースを指してから恋窪は言った。
「タイヤ?」
「ええ。減ってたでしょう」
今年四十二になる恋窪の半分ほどの年端である松木は、腑に落ちない顔で恋窪を見やった。真っ白いおろし立てのシャツに若くてやんちゃ気のある黄色い花柄模様のネクタイを締めている。もうコートが必要な季節だというのに、上着はなしで額には汗すら浮かべていた。
「そうかな。でも、それがどうかしたんですか」
「あの社長の会社、順調ですか」
松木はいよいよわからないという顔になって腕組みをした。正面に立たれると、恋窪は見上げるようになる。大学時代にバスケット部だったというだけあって、身長は一九十センチある。恋窪よりちょうど二十センチ近く高い。
「なんでタイヤと業績が関係あるんです」
「ほら、よく言うじゃありませんか。社長の金回りは車のタイヤに出るって。大園社長、でしたよね、あの人。見たところ車好きで、ボディはこれでもかってぐらいにぴかぴかに磨き上げているのにタイヤだけつるつるなんて変じゃないですか。それに顔に元気がなかった…”
【基本データ】
講談社文庫
2006年1月15日 第一刷発行
池井戸潤「仇敵」
ISBN4-06-275284-0
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