嶋田賢三郎「巨額粉飾」

新潮文庫 嶋田賢三郎「巨額粉飾」表紙_[0]

【メモ】

・実際に、カネボウの常務取締役・財務経理担当であった著者。その著者が描く「トウボウ」の内部、現場で起こっていたことの実態は非常にナマナマしく、興味深く、面白い。

・番匠啓介という男の姿の描き方がなかなか良い。で、その「カッコイイ男」キャラが立ってきたところで、物語の一つのクライマックス、中盤から後半に掛けての検察とのやり取り、信頼関係の確立、勝利を勝ち取る的な流れのあたり、読んでいてとてもおもしろかった。

・数字や専門用語が多数出てくるが、読み手の立場に立って必要に応じて解説などもついているので、結構普通に読める。

・トウボウの会長職西峰と、山崎豊子「沈まぬ太陽」の国見会長 のモデルとなった人物が同一の人物である、というのも面白い話。

 

【本文書き出し】

”第一章 軋轢

握りしめている受話器は冷たく濡れていた。番匠啓介の掌が汗ばんでいるのだ。平成一四年一月一六日の昼下がり、相手は住倉五井銀行常務取締役の坂上成久である。

住倉五井銀行は前年四月、それぞれに財閥グループを背負った住倉銀行と五井銀行が現今の金融不況を乗り越えるべく、背水の陣で合併・発足したメガバンクだ。坂上は取引先問題会社を所管してきた五井出身者で、どんなトラブルにも耐え忍べるような、浅黒くて角張った、押し出しの利く顔つきをしている。

儀礼的な挨拶を手短にすませ、番匠は本題に斬り込んだ。

「本日電話を致しましたのは、弊社一四年三月期の決算の件でございます。すでにご承知のように各部門の業績が低迷しております。加えて、東洋染織に対する受取手形に多額の貸倒引当を計上する必要が生じ、連結ベースで大きく赤字となる見通しです。率直に申し上げますと、連携債務超過への再転落は避けられません。たいへん恐縮なのですが、その件をお含み置きいただきたいのです—」

トウボウが東洋染織株式会社に対して抱える受取手形は今や四〇〇億円以上に膨れ上がっている。番匠の眉間には深い縦皺が寄った。

トウボウ株式会社は東京証券取引所市場の第一部上場会社である。日本の資本主義勃興期に当たる明治二〇年に設立され、その二年後に東京株式取引所に上場した、一二〇年の歴史を誇る超名門会社である。当時の上場銘柄で今日まで名をとどめているのは日本郵船、東京瓦斯、東京海上火災保険とトウボウの四社だけであり、オールド・ジャパンを代表する老舗企業といえよう。繊維から化粧品まで、というキャッチフレーズに象徴される経営多角化路線が世間の話題をさらった時代もある。番匠は現在、トウボウ本社で常務取締役財務経理本部長を務めている。

「それは由々しき事態ですよ。いま、連結で債務超過になったら、間違いなく貸し剥がしの大合唱が始まります。そうなればとても当行だけでは支えきれない」

予想通り、坂上常務は自行が火の粉をかぶらないよう予防線を張ってきた。取引先の立場や状況を一顧だにせず、自行のリスク回避のみに徹する姿勢は、バンカーに共通する習性だ。

「ですが、トウボウの当期決算がことさらに苦しいのは、東洋染織が原因なのですよ」。番匠はかまわず核心部分へ踏み込んだ。

「その原因を作ったのだ桜木副社長だといいたいのですか」

「率直に申し上げれば、その通りです」

平成七年十二月にメインバンクの旧五井銀行から顧問として送り込まれた桜木英智は、昭和三九年東京大学法学部卒業後、同行に入行した。平成五年には取締役法人部長に就任。平成八年六月に派遣先のトウボウで常務取締役となり、二年後の四月より取締役副社長に就く。旧五井の頭取麻生宗生直属の部下だった時期のあることが、折にふれ社内で麻生現会長との親密度を誇示する所以だ。文字通り、トウボウ社長の片腕、否、頭脳の役割を果たしてきた。

デスクに積まれた分厚い報告書にパラパラと目を通しただけで、内容をただちに把握できるほどの能力の持主だ。しかし拡大志向が強く机上の空論によって数字を振り回すので、企業の置かれた状況や人材の力量を無視してしまうきらいがある。目的を達するためには手段を選ばず、昨日は「黒」と言っていたことを、今日は「白」だと恥ずかしげもなく発言しつつ、周囲を口先でまるめこむ狡猾さも備えていた。

兵頭忠士と桜木英智は出会った当初から、妙にウマが合った。

桜木が旧五井銀行から送り込まれてきた時、兵頭はトウボウの常務取締役であった。当時、トウボウの儲け頭である化粧品事業の本部長でありながら、本部スタッフの事業統括本部長も兼任していた。桜木英智の類まれな頭脳とメインバンク元役員というブランドにさっそく目を付け、次期社長就任という野望実現のために大いに利用せんと接近を図っていった。

平成一〇年四月、メインバンク五井銀行の後押しの下、兵頭忠士は同年六月の株主総会を待たず、秋山一雄前社長から奪い取るようにして代表取締役の座に就いた。二年前に陥った二五〇億円近い連結債務超過の解消がこのままでは一向にはかどらない、と五井は秋山を突き放したのである。

兵頭が指名されたのは、「この男ならば掌に乗せてコントロールできる」と考えた桜木が五井銀行の経営首脳陣に働きかけたお陰である。社内では周知の事実だ。

兵頭忠士は直感型・人情派タイプの人間で、一流大学出身者で固められているトウボウでは、お世辞にも切れ者とは言えなかった。九州出身で、四国の私立大学を出てから大阪にある化粧品問屋に就職したが、その問屋が当時販路拡大を目指していたトウボウ化粧品関西販社に吸収合併された結果、トウボウ化粧品に入社したという稀有な経歴の持主だ。押しの強さを武器にした営業力は天下一品であった。自己顕示欲と出世欲の強さでは、トウボウでも右に出るものはいなかった。拡大衝動にかられやすく、上昇志向一辺倒である。この点は桜木とよく似ている。

兵頭は、多くの店主、オーナーを一瞬で虜にしてしまう独特の魅力を持っていた。四国のある化粧品屋に「ご主人、おたくの店のシャッター、もうボロボロやないですか。うちで修理させてもらいます」と持ちかけるなり、翌日シャッターを新品に取り替え、「トウボウ化粧品」と大書させたというエピソードが残っている。人懐っこくて、どこか憎めない人柄が彼の財産だった。

その兵頭は桜木を誰よりも信頼し、彼の能力を他者の目には異様に映るほど大きく買った。桜木の意見、主張には不思議なくらい分別なく従ってしまうのだ。

坂上常務が重い口を開いた。

「番匠常務、桜木さんはもうすでに当行の人間ではなく、御社の方ではありませんか」

長らく同じ釜の飯を食っていたはずの男は、トウボウの内部事情を知り尽くしているにもかかわらず、無責任な台詞を吐いた。

「形の上では御行を辞め弊社に入社されたわけですが、弊社の生殺与奪権を握っているのは桜木副社長だと社内では見られています。いまもメインをバックに発言される桜木さんには、正直言って兵頭以外誰も歯が立ちません」。番匠も皮肉を込めて応酬した。

「そんな副社長が、独断でと言ったら語弊がありますが、平成一〇ねんから東洋染織に対する全権限を一手に握って運営されてこられた。内部調査で分かったのですが、平成一〇年三月までのおよそ一〇年強ほどのあいだに、実損額は五二四億円に達しています。むろんこの損失額は桜木さんとは無関係です。しかし副社長が担当した平成一〇年度から三年間でさらにその実損を三〇〇億円も増やし、それによってトウボウが一気に窮地に立たされたことも事実です…”

 

【表紙及び冒頭5ページ】

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【基本データ】

新潮文庫

平成二十三年四月一日発行

嶋田賢三郎「巨額粉飾」

ISBN978-4-10-134437-9

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横山秀夫「クライマーズ・ハイ」

文春文庫 横山秀夫「クライマーズ・ハイ」表紙_[0]

【メモ】

・日航ジャンボ機墜落事故発生当時、ボクは小学校6年生。ことの重大さがわからない年齢では無かったと思うが、何故が「それなりの頻度で起きるような事故なのかな?」と思った記憶がある。それは周囲の大人たちの反応に何か「鈍さ」のようなものを感じていたからの様な記憶があるが、あまりに大きな事故なせいだったのだろうか?それとも、あまりに悲惨な事故だったからこそ、周囲の大人たちが子供に大して極力それを感じ取らせないように振舞ったせいだったのだろうか?恐らく、ボクの通っていた私立小学校の中にも親類や関係者が事故に巻き込まれたという友人もいただろう。

・物語自体は、日航ジャンボ機墜落事故と主人公の周辺で起きる人間関係、それから17年のちの谷川岳衝立岩でのシーンが交錯しながら進む。

・何度となく盛り上ってクライマックスが訪れる。どんどんと引き込まれるように一気に読まさせられてしまう文章。読みやすい。

・物語中の「盛り上がり」に何度となく引き込まれるが、ボクの中での最大のクライマックスは間違いなく423ページ最後の行から。”「届くはずです。だって—」燐太郎の声に力がこもった。「そのハーケン…”

・実はなんだかんだで今までに10回位は読み返してる。その位面白い。

 

【本文書き出し】

”1

旧式の電車はゴトンと一つ後方に揺り戻して止まった。

JR上越線の土合駅は群馬県の最北端に位置する。下り線ホームは地中深くに掘られたトンネルの中にあって、陽光を目にするには四百八十六段の階段を上らなければならない。それは「上がる」というよりも「登る」に近い負荷を足に強いるから、谷川岳の山行はもうここから始まっていると言っていい。

悠木和雅は爪先の収まりの悪さに登山靴を意識していた。

そうでなくても一気に階段を上がりきるのは難しかった。ペンキで書かれた「300段」の手前の踊り場で、たまらず一息入れた。十七年前と同じ思いにとらわれる。試され、篩に掛けられている。ここで息が上がるようなら「魔の山」の領域に足を踏み入れる資格はないということだ。十七年前は記者生活の不摂生が肩で息をさせたが、今回は五十七歳という年齢が脈拍数を何割か増加させているようだった。

衝立岩に登る。

胸の決意は今にも霧散してしまいそうだった。それでも安西耿一郎の輝く瞳が脳裏から消えてしまったわけではなかった。耳も忘れてはいない。生粋の「山屋」であった彼がぽろっと口にしたあの言葉を。

下りるために登るんさ—。

悠木は上を見つめ、階段の歩を進めた。

下りるために山に登る。その謎めいた言葉の意味をずっと考え続けてきた。一つの答えが胸にある。だが、その答えを確かめる相手がもはやこの世にいなかった。

地上には初秋の淡い光が満ちていた。午後二時を回ったところだ。頬を撫でる風は冷たかった。同じ群馬でも悠木が長く住んでいた高崎とは気温も空気の匂いも異なる。赤いとんがり屋根の駅舎を後にして国道291号線を北に向かって歩く。踏切を超え、雪除けのトンネルを抜けると芝地が右手に広がる。土合霊園地だ、

地元水上町が建立した「過去碑」には、谷川岳で遭難死した七百七十九人の名が刻まれている。「魔の山」の呼び名だけではその凄絶な歴史を説明しきれず、だから「墓標の山」「人喰い山」といった直截的な異名を併せ持つようになった。たかだか二千メートル級の連峰にありながら、地球上のどこを探してもこれほど死が身近な山は存在しない。一つには上越国境特有の気象変化の目まぐるしさが遭難多発の要因に挙げられる。しかし仮に、谷川岳が「一ノ倉沢」に代表される急峻な岩場を抱えていなかったとしたら日本中にその名を馳せることもなかった。未登岩壁の征服。熾烈な初登攀争い。往時、先鋭的な登山家たちは艱難と名声を求めて津波のごとくこの地に押し寄せた。地下駅ができるや、彼らはあの四百八十六段の階段を全力疾走で駆け上がったという。一分一秒を競って岩壁に取りつき、存分によじり、そして存分に墜ちた。谷川岳が危険な山であることが喧伝されればされるほど、血気盛んな若い登山家の心を高揚させ。それがまた過去碑の名を増やす結果へと繋がっていった。衝立岩は、そんな彼らをして「不可能の代名詞」「最終課題」と言わしめ、長い年月。未登の岩壁であり続けた。時はめぐり、登山用具とクライミングの技術の進歩によって十数本の登攀ルートが開拓されるに至ったが、それを成すために、さらなる多大な犠牲が払われたことは言うまでもない。「ワースト・オブ・ワースト」—最悪の中の最悪。それこそが衝立岩に与えられた最後の異名だった。

なあなあ、悠ちゃん、ドーンと思い切って衝立岩をやろうや—。

安西に連れられて衝立岩を下見した。彼の手ほどきで訓練も積んだ。十七年前のあの日、悠木と安西はザイルを組んで衝立岩に挑むはずだった。

だが、約束は果たせなかった。

その前夜、日航ジャンボ機が群馬県上野村山中の御巣鷹山に墜落したからだった。一瞬にして五百二十人の命が散った。悠木は地元紙「北関東新聞」の統括デスクとして、谷川岳ではない、もう一つの「墓標の山」と格闘することになった…”

 

【表紙及び冒頭5ページ】

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【基本データ】

文春文庫

2006年6月10日 第1刷

横山秀夫「クライマーズ・ハイ」

ISBN4-16-765903-4

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高野和明「グレイヴディッガー」

角川文庫 高野和明「グレイヴディッガー」表紙_[0]

【メモ】

・ゾクゾクするような連続猟奇殺人事件、被害者の体に残された魔女狩りの拷問を思い出させるような痕跡。伝説の怪人「グレイヴディッガー」。独特の世界観に引き込まれるような感じで、次々とページを捲らさせられてしまう。

・移植医療を題材としたミステリーとしてもかなり面白かった。これを機会に、「臓器移植」というものにも興味が湧いた。実際、自分自身の体の臓器をどの程度の移植に提供することができるのか、どの程度の負担をする覚悟があれば、どの程度の協力ができるのか、ということが知りたくなった。そういった意味では、(まあ、そういったことを思った僕のような人間はまれなのかもしれないが)数十万、数百万という人間の目にとまる可能性のあるベストセラーなのだから、こういった小説の一部からでも、実際の移植医療の実態をを知ることができるサイトへのリンクや、臓器提供のドナー登録などのページヘのリンクなどを整備したら、面白い取り組みが始められるのでは?などというくだらないことを考えてしまった。が、くだらなさそうでも、実際にやってみて欲しい。やってみたい。それで数人でも臓器提供、臓器移植の実績が増えれば、それは素晴らしいことなのではないか。

 

【本文書き出し】

”プロローグ

事件は未解決のまま終わろうとしていた。

警視庁人事一課監察係の剣崎主任は、本庁舎十一階にある自分のデスクにつき、苛立ちを抑えながら報告書の作成にかかっていた。パソコンのキーボードを叩く指は、ミスタイプを繰り返した。

「馬鹿げた事件だったな」

部下の西川が、誰にともなく言うのが聞こえた。剣崎よりも十歳も年上の西川は、普段からこちらの気に障るようなことを平気で言ってのける。それも上目遣いの一瞥を投げながら。おそらく故意にやっているのだろう。

机を並べているもう一人の部下、小坂が、童顔に眉を寄せて頷いた。「うちが扱う事案じゃなかったんですよ、きっと」

剣崎は二人の部下を眺めた。時代劇に出てくる悪代官のような顔つきの西川と、ベビーフェイスの小坂。これに上場企業の勤め人といった風貌の剣崎を加えた三人組は、とても刑事には見えない。彼らのいるこの部署が、警察官らしくない捜査員をわざわざ集めているかのようだ。そんな想像があながち否定できないのは、剣崎が率いる人事一課監察係の捜査班が、警察内部の犯罪を摘発するという特殊な任務をおいているからだった。一班が三人編成なので、机を並べているこの三名が最小の捜査ユニットである。今回、彼らが担当することになった事件は、過去に類例のない異常な事件だった。

変死体の盗難—

剣崎はパソコンのモニターから顔を上げ、窓の外に広がる東京の夜景に目を向けた。

一千万人を超える人口がひしめく大都会。この中に、死体を盗み出した何者かが、息をひそめて暮らしている。

誰が、何のために?

近年、目立って増えてきた無動機型の殺人、いわば殺人のための殺人は、小動物の虐殺といった前兆を伴うケースが多い。猟奇殺人鬼は、来るべき殺戮の前に、兎や猫などの小型哺乳類を相手にリハーサルを繰り返す。剣崎が懸念しているのは、今回の変死体の盗難が、そうした凶悪事件の前兆ではないのかということだった。そうでも考えなければ説明がつかない。もしも犯行が警察官によるものだとしたら、今のうちに将来への禍根は摘み取っておかなくてはならない。

剣崎はパソコンのモニターから顔を上げ、二人の部下に言った。「最後にもう一度、事件の流れを確認しておきたい」…”

”第一部 提供者

1

鏡の中で、悪党面がこちらを見返していた。後ろに撫で付けられた黒々とした神、狭い額、そして平行線を描いた細い眉とまぶた。

八神俊彦は自分の顔を眺めながら、いつからこんな面構えになったんだろうとため息をついた。

年月って奴かも知れない、と八神は考えた。中学一年の時に、近所の文房具屋で消しゴムをくすねてから、こつこつと積み重ねてきた悪事が自分の顔を変えたのだ。あれから二十年、まだ三十二なのに十歳は年嵩に見える。悪党とプロ野球選手に老けた顔が多いのは、どちらも気苦労が絶えないせいだろう。

八神はユニットバスの洗面台から離れ、六畳の洋間に戻った。このワンルームマンションに入居して三ヶ月、金もないので家財道具も満足には揃っていない。

フローリングの床の上に直に敷かれた布団に寝転び、枕元のFAX用紙を手に取った。それは入院案内書だった。

『六郷総合病院』。京浜急行本線、六郷土手駅より徒歩十分。

明日からの入院を考えると、悪党の顔にも自然と笑みが浮かんだ。生まれ変わる絶好のチャンスだった。願わくは、明後日に迫った手術が、自分の薄汚れた人生に区切りをつける転機になってほしかった。

そろそろ入院の準備でも、と体を起こしたところで、携帯電話が鳴り始めた。着信表示を見た八神の胸は、さらに高鳴った。六郷総合病院の担当医、岡田涼子からだった。

「はい、八神」

受信すると、医師といいう職業にはミスマッチな、可愛い声が聞こえてきた。「岡田です。いよいよ明日ですね。よろしくお願いします」

「こちらこそ」と八神は、日頃は使わない丁寧な言葉遣いをした。

「体調はいかがですか?」

「万全だ。精力を持てあまして鼻血が出そうだ」

岡田涼子は軽く笑った。電話の向こうの美女の笑顔を想像して、八神は気を良くした。

「明日の九時までに行けばいいんだな?」

「ええ。スタッフ一同、お待ちしてます」

「それで」と、八神は少し真剣な顔になった。「俺が助ける相手については詳しくは教えてもらえないのか?」

「移植が済んだ段階で、性別や年令などはお教えできますよ」

「若い姐ちゃんならいいんだが」

冗談めかして鎌をかけたが、相手は乗ってこなかった。「入院中の面会規則などは、今、お教えしておきましょうか?」

「いや、いい。誰も面会なんかには来ない」

「お友達とかにお知らせしてないんですか?」

「こういうことは悪事と同じで、こっそりとやるもんさ」

女医はまた笑った。八神は、コメディアンの充実感を味わった…”

 

【表紙及び冒頭5ページ】

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【基本データ】

角川文庫

平成二十四年二月二十五日 初版発行

高野和明「グレイヴディッガー」

ISBN978-4-04-100164-6

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