ヴェルヌ「十五少年漂流記」波多野完治/訳

新潮文庫 ヴェルヌ「十五少年漂流記」波多野完治/訳 表紙_[0]

【メモ】

・忠実なカトリック信者であったヴェルヌの描くストーリー。訳者あとがきにもあるが、ヴェルヌの小説にはあまり悪人が出てこない。性善説的な、ある目的にむかってひたむきにすすむ、男性的な人物像。陰険であったり、弱気であったりする人物は描かれない。人間の積極面、健康面を描いた快楽小説。こういった「ポジティブな部分」というのが、僕の好みとすごく良くマッチしているのかと思う。とても読みやすく、楽しいお話。

・子供に読ませるのに良いと思う。子供に読んであげたい本。自分で読めるようになったら読ませたい本。

・自分自身も子供の頃何度となく読んだ本で、今読み返してもものすごく面白いと思う。

・この度、幼稚園の子供に読み聞かせてあげようかと思って、久しぶりに手にしてみた。

・偶然にもというか、本文が全30章にわかれていて、それぞれの章には短い要約的なタイトルがついている。例えば「第一章 大嵐—難破船—マストが折れた—遠く霧にかすんで陸が—暗礁」「第二章 浅瀬にて—ブリアンとドノバン—上陸の準備—マストの上から—ブリアンの冒険」など。1章の長さは10ページ前後。

・子供の幼稚園が夏休みの間、8月一杯を目処に(できれば)毎日一章づつ読んであげようかな、と。10ページづつであれば一日10分位、翌日は前日読んだ章の要約タイトルを先に読んであげれば、昨日の話も思い出せるかな、と。

・幼稚園児にはちょっと難しいかもしれないけれど、なんとか理解できる話な気もするし、チャレンジしてみようと思う。

・ちなみに、「スクーナー船」とは、マストを二本以上もつ帆船のこと(厳密には同じように二本以上のマストをもった帆船でケッチというものもあって、形状で分類される)。

 

【本文書き出し】

”第一章

大嵐—難破船—マストが折れた—遠く霧にかすんで陸が—暗礁

一八六〇年三月九日の夜。

低くたれこめた雲が、海の上に重くおおいかぶさっていた。数メートル先は、なに一つ見えないやみである。吹き荒れる風に、波は、白いしぶきをあげて、大きく巻き返している。

この嵐の中を、帆を半分張った一隻の船が、飛ぶように走っていくのが、時々きらめく、青白い稲妻の光にはっきりと浮かび上がった。

船は百トンほどの、アメリカやイギリスでは、スクーナーと呼ぶ帆船の一種である。

この船の名をスルギ号という。だが、船の名を捜してもどこにも見当たらない。船尾に打ち付けてあった名板は、とっくになくなってしまったのだ。

波がもっていったのか、それとも、なにかほかの事件でもあったのか。

時刻はちょうど、夜の十一時。

いま、この船の走っている緯度のあたりでは、三月の夜は長くないはずだ。だが、夜が明ければ、スルギ号の危険はいくらかでも減るというのか。

スルギ号はきゃしゃで形も小さい。果たして、朝の来るまでその姿を海上に浮かべていることができるかどうか危ぶまれる。

だが、いま嵐が止みさえしたら、船は悲しい運命から救われるのだ。

スルギ号の甲板には、四人の少年の姿があった。十四歳が一人、十三人が二人、あとの一人は十二歳になる黒人の少年である。

少年たちは、いま、全力を出して、舵輪を握り、船を正しい進路に向けるために戦っているのだ。だが、舵輪は、少年たちのか弱い力では、いくら押さえつけても、元にもどってしまう。

船尾のあたりに、大きな、山のような波がぶつかり、どっと甲板に向かって押し上がってきた。舵輪が手から放れ、少年たちのからだが甲板にたたきつけられた。だが、すぐにみんなは起き上がって、舵輪に飛びついた。その中の一人が、よろめきながら叫んだ。

「船はだいじょうぶか、ブリアン」

「だいじょうぶだとも、ゴードン」

と、自信のある声で答えたのは、ブリアンと呼ばれた、いちばん先に舵輪にもどった少年であった。彼は、他の一人に向かって言った。

「ドノバン、勇気を出そうよ。船室には、小さいお客さんたちが、大勢いるんだからね」

このブリアンの英語には、どこかフランス人らしい訛があった。ブリアンは、今度はただ一人の黒人の少年に話しかけた…”

 

【表紙及び冒頭5ページ】

新潮文庫 ヴェルヌ「十五少年漂流記」波多野完治/訳 表紙_[0] 新潮文庫 ヴェルヌ「十五少年漂流記」波多野完治/訳 本文1_[0] 新潮文庫 ヴェルヌ「十五少年漂流記」波多野完治/訳 本文2_[0]

新潮文庫 ヴェルヌ「十五少年漂流記」波多野完治/訳 本文3_[0]新潮文庫 ヴェルヌ「十五少年漂流記」波多野完治/訳 本文4_[0]新潮文庫 ヴェルヌ「十五少年漂流記」波多野完治/訳 本文5_[0]

 

【子どもの読書に関わるデータ】

ふりがなの状況:一部ルビ(難しい字にはある程度ルビが振られていますが、初出時のみ。小学校低学年では少しつらい、読書が好きでも小学校4年程度〜が対象といったレベルかと思います)。

文字の大きさ:小さい、大人向け文庫とほぼ同等サイズ

 

【基本データ】

新潮文庫

昭和二十六年十一月十八日発行

平成二年五月二十五日六十六刷 改版

ヴェルヌ「十五少年漂流記」波多野完治/訳

ISBN978-4-10-204401-8

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冬野花「インド人の頭ん中」

中経の文庫 冬野花「インド人の頭ん中」表紙_[0]

【メモ】

・やたらと言い訳が多く、でも憎めない。そんなインド人。日本で当たり前のことがなかなか当たり前にならない。そんな国、インド。

・仲の良い友人が仕事で3〜4年インドに行っていたけれど、似たようなことを言っていた気がする。

・著者の達観したような書きっぷり、結構好きです。こういう自虐ノリツッコミ的な視点って、ギャグのセンスとして個人的には結構ツボに入ってしまう感じ。好きな人は好きだと思うんですけれど。

・著者のブログサイトもなかなか面白いです。この本を読んでみたい、と思った方は、サイト側もチェックしてみると良いかも。ブログの方もほとんど全部と言っていいくらい読んでみましたが、一番のツボは”お花見で「ヤキ」を食べた思い出”あたりでしょうか。あとは、個人的には、食文化まわりのエピソードにこの著者の見た「インド人の頭ん中」が結構わかりやすく、そして面白く現れている様な気がしてて面白かったです。

・読みやすく、いっちゃ悪いですが暇つぶし的な。でもこういうお話を、何の目的があるわけでも無く読んで、単に笑い飛ばして終わったり、もしかしてもしかすると何かに気がついたり何かの役に立ったりすることもある、というのも、大人の生活には必要なことなのでは無いかと思うわけです。

 

【本文書き出し】

” 初めてのお引っ越し

さっぱり地理感のない、気温四十度を超える街。

インドに住むことを決め、デリーにやってきた私は、ケチをこじらせたために、エアコンもない安宿に泊まりながら、息をするのも暑いさなか、怪しげな不動産屋をヨレヨレになりながら回っていた。毎日、自分の出した大量の汗で漬物のようにシナシナになること一週間。ようやく、とりあえずの部屋を見つけたのだった。

しかし、それは今から思えば「使用人用の物件」だった。インドの家々の屋上には、必ずといっていいほど住み込みの使用人用の粗末な小屋がある。私が見つけたのはまさにそんな小屋だったのだが、その時点では、知るよしもなかった。

私が住んでしまった物件は、老夫婦の住む家の屋上に、粗末な小屋が三つ、それぞれ離れて建っているという造りだった。小屋のうちのひとつは居間にあたり、八畳くらいの広さだったが、棚すらない真四角のコンクリート製の部屋。家具も一切なく、壁もずいぶん汚れていたので、拭いたところ、コンクリの地肌が出現し、なんと「水性ペンキで塗ってあるので拭けない」ことが発覚した。

倉庫の扉のような鉄製のドアを開け、一度外へでて六メートルくらい離れた場所には、キッチン小屋があった。しかし、「半分外にある感じ」なので、飛んでくる土ぼこりはあり得ない量だった。それもその当時の私には知り得なかったことだが、デリーのほこりの量ときたら、常軌を逸しているのである。三日使わなかったフライパンには、日本で「外に放置して一年」くらいのほこりが積もった。

キッチンの反対側には、また鉄のドアがあり、開けると向こう側に今度は、トイレ&シャワー用の小屋があるのだが、そこに飛んでくる砂の量も、尋常でなかった。砂漠のほうから「ルー」という風が吹く季節には。数時間掃除をしないと、廃屋のトイレのようになった。

そして、暑さ!デリーでは、日本とは反対に、一階の家賃が最も高く、最上階が一番安い。なぜならば、真夏の気温は四十五度に達することもあり、そうなると屋上の部屋の室温は、地獄に匹敵するからである。

狭い上に、自分より上の階はなく、サイド四面にも何もない、孤立した私の小屋は、「炎天下でドラム缶に閉じ込められた」くらいの暑さであった。今でも、住み込みの使用人の大半が、そういった劣悪な環境に住んでいるわけだけれど、いったいどうやって暮らしているのだろう・・・・・・。

どうしようもないので、わたしはエアコンを購入した。しかし、それは窓につける(つまり室外機がセパレートでない)タイプで、私の小さな部屋の窓にはめるには多きすぎたため、壁の一部を壊して取りつける羽目になったのである。ハンマーでゴーンとやると、普通に壊れて穴が開いてしまうインドの家の構造と、その壁のあり得ない薄さに驚き、改めて「暑いはずだよ・・・・・・」と思った。

しかも、そのときにはやはり知らなかったデリーの停電事情と、インドの電気代の高さのため、エアコンもそんなに活用できなかったのである。結局、寝る前の一時間つけるだけで、あとは、冷たい缶ビールを脇の下やひざの裏に挟むという手法で寝た。

当時は、冷蔵庫が恋人であった。何ひとつなかったキッチンに、近くの店で買った、韓国製の小さな冷蔵庫をポツネンと置いて、それだけが命綱。ろくなものがない家の中で、冷蔵庫だけが輝いていて、「あなたがいなければ私は死んでしまう!」というくらい冷蔵庫に寄りかかって暮らした。

ちなみに、その冷蔵庫だって、「スカイブルー」を頼んだはずが、手元に届いたのは全然うれしくないシルバーだったという、いわくつきのもので、恋人なのに見かけは気に入っていなかった。インドというのは、得てして、頼んでもいないものはちゃんと届くくせに、欲しいものは絶対にスムーズに手に入らないところなのだ・・・・・・。

そんなこんなで…”

 

【表紙及び冒頭5ページ】

中経の文庫 冬野花「インド人の頭ん中」表紙_[0] 中経の文庫 冬野花「インド人の頭ん中」本文1_[0] 中経の文庫 冬野花「インド人の頭ん中」本文2_[0]

中経の文庫 冬野花「インド人の頭ん中」本文3_[0] 中経の文庫 冬野花「インド人の頭ん中」本文4_[0] 中経の文庫 冬野花「インド人の頭ん中」本文5_[0]

 

【基本データ】

中経の文庫

2009年3月6日 第一刷発行

冬野花「インド人の頭ん中」

ISBN978-4-8061-3299-8

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リリー・フランキー「美女と野球」

河出文庫 リリー・フランキー「美女と野球」表紙_[0]

【メモ】

・リリー・フランキーの本、実は沢山読んでます。どれもオモシロい。僕自身、このサイトとは別に運営している幾つかのサイトでの文章は、リリーさんの文章の影響を色濃く受けている気がします。その他の本についてもオイオイご紹介したいです。

・このサイトで紹介している他の本とはちょっと傾向が違う気もしますが、ボクの評価基準の一つ「読みやすい本=良い本」という意味では、この本もとても読みやすい「良書」の一つなのでは無いかと…。

・傍目にはふざけているようにも見えてしまう「ご自身の人生」を「一生懸命」生きて、それを文章にしているからこそ面白いのかな、と思います。そういった意味では、今までに紹介してきた本、ボクが好きな池井戸潤さんとか、池波正太郎さんとか、そういった方の本が面白いのと、リリー・フランキー先生の本が面白いのには、きっと共通点があるはず、という位に思っています。

・単なる暇つぶしとして読んで頂いても良いですが、「なかなか深みがある」「様な気がする」本です。

 

【本文書き出し】

(1)”金色の男と夜空と司会者

ボクは時々、司会の仕事をする。この季節はやはり、お祭りとかに呼ばれていくのが多い。ボクは司会をする時にはユリ・サリバンと名乗っている。言わずもがなエド・サリバンを意識しているのだけど、ユリの仕事内容はエドと違ってベタベタだ。

今年もボクはF市という米軍のベースのある街の夏祭りに呼ばれた。司会をする時のボクは七三分けだ。メガネもかけるし暑くてもタキシードを着こむダンディな男である。特設ステージではピエロのお兄さんによる風船ショーが行われている。今回はこういう大道芸の人たちやカラオケ大会の進行をする役どころで、去年ココに来た時はプレスリー(そっくりさん)と美空ひばり(そっくりさん)の歌謡ショーの司会だった。ピエロのお兄さんが風船で作るウサギとかをステージの脇からボンヤリと眺めながら思った。

“俺、なんで司会やってるんだ・・・・・・?”

それはあの日からだ。数年前、突然大量のダンボールが届いた。送り主はリリー・ママンキー(オカン)。食べ物にしてはちょっと大きすぎる箱。慌てて開けたその箱の中身を見てボクは呆然とした。そこにはタキシード、タキシード、全部タキシードなのである・手紙には「近所の貸衣装屋さんが潰れたのでもらってきました。何かに使いなさい」。母よ!!アンタは息子にコレをどうしろと言うのか!?

しかし、あの日からボクは司会の他人になってしまった。最初はオモシロがって色んなトコで着てたり、自分の構成してたテレビの深夜番組に着てたりしてたら、イベント屋さんとかにチェックされて、いつのまにか本気の営業司会の人になっていたのだ。息子を九州から遠隔操作する恐るべきママンキーである。あの時、「タキシード=司会者」というチープな発想以外を持ち合わせていたら…”

 

(3)”ヒゲの女

ヒゲのはえている女がいる。

誰しも今までに一度や二度はヒゲのはえた女を見たことがあるはずだ。特に中学生ぐらいの女子はヒゲ率が高い。アレはその年ごろ特有の病気とう訳ではない。女もヒゲがはえるのだ。女も男と同様にそれなりのヒゲがはえる生き物なのである。

問題は、そのヒゲを剃らない女が存在することだ。ヒゲ女が珍しい存在であることは、同時に、ほとんどの女がヒゲを剃っているということで、その行為がみだしなみであり、それ以前に女として生きるための常識でもあるからである。

とにかく、ヒゲをはやした女はどういう神経で何をかんがえているのか!?と言いたいのだ。中坊はまだ、お咎め無しとしても、それ以上のイイ年をした女がヒゲをはやして表に出て平気な顔をしているというのが理解できぬ。

この間、中野の街を歩いた時だ。駅前で宗教勧誘員のネエちゃんに声をかけられた。いつもなら、そのまま通り過ぎるところだが、そのネエちゃんのヒゲを見た途端、反射的に立ち止まってしまい、話をするハメになってしまった。年の頃は二十歳前後だろう。紺のツーピースを着ている。そして、これが気の毒なことに、結構カワイイ。色白の肌にヒゲが映える。男のヒゲと違い、女のヒゲはウブ毛である。が、そのウブ毛というものは伸びて密集していると、これはもう、絶望的に不潔で醜い。男だったら、「いい、おヒゲを蓄えてらっしゃいますな」とホメるところだが、もうなんちゅーうね、コレは。

そして、彼女は笑顔で言う。

「人類の幸せとは何だと考えていらっしゃいますか?」

まぁ、待て。その前にお前にひとこと言わせてくれ、その場で言えなかったから、ここに書く。人類の幸せ、地球、神、宇宙。何にしても幸せについて考えるのはいいことだ。しかし、そのグローバルな幸福を考え始めた時に、まずやらなければイカンことは、その君個人の幸せを獲得することだろう。そう、君はまず全人類の心配をする前に、ヒゲを剃れ。急いでヒゲを剃るべきだ。しかし君は言うだろう。「私はとっても幸せです」と。違うぞ!!それは、違う。君はそのヒゲに無頓着でいるために様々な迫害を知らずのうちに受けているハズだ。現に今、僕は君のことを奇人を見る目で接している……宗教家ならば、まず第一に「汝ヒゲを剃りなさい。とらわれの時も病める時も、ヒゲを剃りなさない。ならば道は開かれん」と言ってあげろ……ヒゲ女がひとり、いやオマエのところはもっといるだろう、女のヒゲを剃らすことも出来ん宗教なんぞ邪教である。

以前、ボクは知人に唆されて、ある自己啓発セミナーに行ったことがある……

……ボーッとしていると福島は言った

「アナタはいいかげんな感じがしますね。それに協調性がないというか自分勝手で・・・・・・」

な、なんで!?なぜそんなことが言える!?決して外れてはいないけど怖い人だ……

「あのー。ボクの意見としては、あなたはもっと女性としてのみだしなみに注意したらどうかと・・・・・・」ひとくさり罵倒された後、やっとボクはこう言った。本当は「ヒゲ剃れよ!!この……”

 

【表紙及び冒頭4ページ】

河出文庫 リリー・フランキー「美女と野球」表紙_[0] 河出文庫 リリー・フランキー「美女と野球」本文1_[0] 河出文庫 リリー・フランキー「美女と野球」本文2_[0]

河出文庫 リリー・フランキー「美女と野球」本文3_[0] 河出文庫 リリー・フランキー「美女と野球」本文4_[0]

 

【基本データ】

二〇〇五年一〇月二〇日 初版発行

ISBN4-309-40762-5

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