志賀直哉「小僧の神様 他十篇」

小僧の神様―他十篇 (岩波文庫)

【メモ】

・ともかく「読みやすい」の一言に尽きる文章。そして、非常にわかりやすく、面白い。シンプルに、ストレートに伝わってくる感じ。

・話の内容も、確かに現代の話では無いのは読んでいればわかるのだが、古臭さを感じさせられない。今この時代にも、神田や日本橋界隈には仙吉の働く秤屋があるのでは無いか、という気がしてしまう…。まさかこの本が今から85年(!)も前に出版された本とは。

 

【本文書き出し】

”小僧の神様 一

仙吉は神田のある秤屋の店に奉公している。

それは秋らしい柔らかな澄んだ日ざしが、紺のだいぶはげ落ちたのれんの下から静かに店先にさし込んでいる時だった。店には一人の客もない。帳場格子の中にすわって退屈そうに巻き煙草をふかしていた番頭が、火鉢のそばで新聞を読んでいる若い番頭にこんな風に話しかけた。

「おい、幸さん。そろそろお前の好きな鮪の脂身が食べられるころだネ」

「ええ」

「今夜あたりどうだね。お店をしまってから出かけるかネ」

「結構ですな」

「外濠に乗って行けば十五分だ」

「そうです」

「あの家のを食っちゃア、このへんのは食えないからネ」

「全くですよ」

若い番頭からは少しさがったしかるべき位置に、前掛けの下に両手を入れて、行儀よくすわっていた小僧の仙吉は、「ああすし屋の話だな」と思って聞いていた。京橋にSという同業の店がある。その店へ時々使いにやられるので、そのすし屋の位置だけはよく知っていた。仙吉は早く自分も番頭になって、そんな通らしい口をききながら、勝手にそういう家ののれんをくぐる身分になりたいものだと思った。

「なんでも、与兵衛のむすこが松屋の近所に店を出したという事だが、幸さん、お前は知らないかい」

「へえ存じませんな。松屋というとどこのです」

「私もよくは聞かなかったが、いずれ今川橋の松屋だろうよ」

「そうですか。で、そこはうまいんですか」

「そういう評判だ」

「やはり与兵衛ですか」

「いや、なんとかいった。何屋とかいったよ。聞いたが忘れた」

仙吉は「いろいろそういう名代の店があるものだな」と思って聞いていた、そして、

「しかしうまいというとぜんたいどういう具合にうまいのだろう」そう思いながら、口の中にたまって来る唾を、音のしないように用心しいしい飲み込んだ…”

小僧の神様―他十篇 (岩波文庫)

 

【基本データ】

岩波文庫

1928年8月25日第一刷発行

志賀直哉「小僧の神様 他十篇」

ISBN4-00-310462-5

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高野和明「13階段」

【メモ】

・幾つもの伏線が、順を追ってしっかりと回収されていく気持ちよさ。

・伏線の一つ一つも結構細かく描写されていて、それがストーリー全体の面白さを一段引き上げていると思う。

・しかも、相当に「これでもか」という位にどんでん返しも盛り込まれていて、かなり面白かった。

・読みやすい文章。一気に読んでしまったので、最初に読んだ時には気が付かなかったけれど、細かいところの表現なんかもいちいち良い。例えば【書き出し】でも引用した

”やがて、静まり返った廊下を、一列縦隊の靴音が、予想を上回る人数とスピードで突き進んで来た。”

のくだりとか。実際には極々普通の速度で規則正しく歩いているだけの刑務官の足音が、常に「お迎え」の恐怖から逃れられないでいる死刑囚の「感覚」からすれば、『やめてくれ〜』と叫びたくなるような「速度」で近づいてくる様に感じられる、ということを表現しているのかな、などと考えながら読んでみると、非常にしっくりとくる良い表現だな、とか。

その後の

”さらに九歩進んで不意に途絶えた。”

という表現とか。多くの読者は実際に見たことが無いであろう拘置所の廊下の「広さ」であるとか、死刑が執行された「一九〇番、石田」と物語の中心人物「樹原」の距離感、近さであるとかが、この”九歩”という数字で、一気にわかり易くなっている気がする、というようなところとか。こういう「目に見えるような」文章、「わかり易く読み易く」な感じ、結構好きです。

 

【本文書き出し】

”序章

死神は、午前九時にやって来る。

樹原亮は一度だけ、その足音を聞いたことがある。

最初に耳にしたのは、鉄扉を押し開ける重低音だった。その地響きのような空気の振動が止むと、舎房全体の雰囲気は一変していた。地獄への扉が開かれ、身じろぎすらも許されない真の恐怖が流れ込んで来たのだ。

やがて、静まり返った廊下を、一列縦隊の靴音が、予想を上回る人数とスピードで突き進んで来た。

止らないでくれ!

ドアを見ることはできなかった。樹原は、独居房の中央に正座したまま、膝の上で震える指を凝視していた。

頼むから止まらないでくれ!

そう祈る間も、猛烈な尿意が下腹部に押し寄せてくる。

足音が近づくにつれ、樹原の両膝がガタガタと震え始めた。同時に、ねっとりとした汗に濡れた頭部が。意志の力に抗いながら、ゆっくりと床に向かって沈み込んでいく。

タイルを踏みしめる革靴の音はどんどん大きくなった。そしてついに部屋の前まで来た。その数秒間、樹原の体内にあるすべての血管は拡張され、破裂しそうな心臓から押し出された血液が、体毛の一本一本を揺るがせながら全身を駆けめぐった。

だが、足音は止まらなかった。

それは部屋の前を通り過ぎ、さらに九歩進んで不意に途絶えた。

自分は助かったのかと思う間もなく、視察口の開閉音に続き、独居房を解錠する金属音が聞こえてきた。空房を一つはさんだ、二つ隣のドアのようだ。

「一九〇番、石田」低い声が呼びかけた。

警備隊長の声か?

「お迎えだ。出なさい」

「え?」聞き返した声は、以外にも頓狂な響きを含んでいた。「俺ですか?」…”

 

【表紙及び冒頭5ページ】

文春文庫 高野和明「13階段」本文1_[0] 文春文庫 高野和明「13階段」本文2_[0]

文春文庫 高野和明「13階段」本文3_[0] 文春文庫 高野和明「13階段」本文4_[0] 文春文庫 高野和明「13階段」本文5_[0]

 

【基本データ】

文春文庫

2012年3月10日 第一刷

高野和明「13階段」

ISBN978-4-16-780180-9

江戸川乱歩賞受賞作

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ジェイ・マキナニー「ブライト・ライツ、ビッグ・シティ」高橋源一郎/訳

新潮文庫 ジェイ・マキナニー「ブライト・ライツ、ビッグ・シティ」高橋源一郎/訳 表紙_[0]

【メモ】

・自分なりに一生懸命生きている。自分自身がおかしくなってしまわない範囲の中で、できるだけまじめに生きている。という様な、「ごくごく普通の」若者の姿。その姿というのは、まさに読者自身の姿であって、僕自身の姿であって、という様に感じることのできるお話。

・コカインをやったことも無いし、一流新聞社の調査係でもない。けれどもそんなあなたもこの本を読むと、主人公の心の中にあるポジティブなもの、ネガティブなもの、色々なものが、どうも自分自身の心の中にあるものととても似通っている、そんな風に感じる部分がきっとあると思います。

・裏表紙の紹介文には「青春小説」とありますが、少なくとも、僕の様な40歳前後の人間が読んでも、今現在の自分自身と重ねあわせて何かを感じ取ることができる、そんなお話です(最初に読んだのは30歳位の頃でしたけれど)。

 

【本文書き出し】

”第一章—午前六時。いま、きみのいる場所

きみはそんな男ではない。

夜明けのこんな時間に、こんな場所にいるような男ではない。しかし、いまきみのいるのは、間違いなくこんな場所なのだ。この風景には見覚えがない、ときみは言うことができない。きみはナイトクラブにいて、頭を剃り上げた女と話している。クラブの名前は「ハートブレイク」。いや、「ザ・リザード・ラウンジ」だったろうか。バスルームに入り、ボリヴィア製の強いコカインをひとつまみやりさえすれば、何もかもがもっとはっきりとしてくるかもしれない。だがそんなことをやっても、何もはっきりとはしてこないかもしれない。きみの内側で誰かの声がこう囁いている—まわりで何もかもが次々とぼやけていくのは、コカインに溺れ続けてきたためだ、と。夜はきみの知らないどこかを中心に回転し、午前二時を指していた時計の針はもう六時を回っている。そうやって時が過ぎ去るのを、きみは何度も見てきた。しかしきみは、まだ致命的な痛手は負っていないと、麻痺と廃疾が待ちうける最後の一線だけは越えていないと、そう言いたいのだ。

もう少し前なら、引き返すこともできたのかもしれない。しかしきみは白いパウダーの跡を彗星の尾のように長くひきずりながら、ここまで来てしまった。そしていまも、騒々しい仲間から離れることができない。

いま、きみの頭の中には、ちっちゃなボリヴィアの兵士たちが整列している。彼らが疲れ果て泥にまみれているのは、一晩中行進していたからだ。ブーツに穴を開けた彼らは口々に飢えを訴える。その飢えは充たされねばならない。行進を続けるためには、もっとパウダーが必要だ。

きみはあたりを見まわす。これはきみの知らない異国の光景ではないのか—肌の上で揺れる宝石、奇抜なメイクアップ、けばけばしい髪飾りとヘア・スタイル。どこかラテン的なこの雰囲気。それはきみの血管を泳ぎまわっているピラニアや、きみの頭の中で少しづつ小さくなっていくマリンバの音よりももっとラテン的かもしれない。

きみは柱にもたれかかっている。あってもなくてもいいような柱だが、いまのきみには、まっすぐ立っているためにどうしても必要だ。頭を剃り上げた女がしゃべっている—あのかっぺどもがやって来るまではここだって感じがよかったのに。そんな女とは話すのも、話を聞くのもまっぴらなのに、きみは愛想をふりまいている。ほんとうは、何もしたくないのだ…”

 

【表紙及び冒頭5ページ】

新潮文庫 ジェイ・マキナニー「ブライト・ライツ、ビッグ・シティ」高橋源一郎/訳 表紙_[0] 新潮文庫 ジェイ・マキナニー「ブライト・ライツ、ビッグ・シティ」高橋源一郎/訳 本文1_[0] 新潮文庫 ジェイ・マキナニー「ブライト・ライツ、ビッグ・シティ」高橋源一郎/訳 本文2_[0]

新潮文庫 ジェイ・マキナニー「ブライト・ライツ、ビッグ・シティ」高橋源一郎/訳 本文3_[0] 新潮文庫 ジェイ・マキナニー「ブライト・ライツ、ビッグ・シティ」高橋源一郎/訳 本文4_[0] 新潮文庫 ジェイ・マキナニー「ブライト・ライツ、ビッグ・シティ」高橋源一郎/訳 本文5_[0]

 

【基本データ】

新潮文庫

平成三年五月十五日発行

ジェイ・マキナニー「ブライト・ライツ、ビッグ・シティ」高橋源一郎/訳

ISBN4-10-234801-8

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