【メモ】
・ゾクゾクするような連続猟奇殺人事件、被害者の体に残された魔女狩りの拷問を思い出させるような痕跡。伝説の怪人「グレイヴディッガー」。独特の世界観に引き込まれるような感じで、次々とページを捲らさせられてしまう。
・移植医療を題材としたミステリーとしてもかなり面白かった。これを機会に、「臓器移植」というものにも興味が湧いた。実際、自分自身の体の臓器をどの程度の移植に提供することができるのか、どの程度の負担をする覚悟があれば、どの程度の協力ができるのか、ということが知りたくなった。そういった意味では、(まあ、そういったことを思った僕のような人間はまれなのかもしれないが)数十万、数百万という人間の目にとまる可能性のあるベストセラーなのだから、こういった小説の一部からでも、実際の移植医療の実態をを知ることができるサイトへのリンクや、臓器提供のドナー登録などのページヘのリンクなどを整備したら、面白い取り組みが始められるのでは?などというくだらないことを考えてしまった。が、くだらなさそうでも、実際にやってみて欲しい。やってみたい。それで数人でも臓器提供、臓器移植の実績が増えれば、それは素晴らしいことなのではないか。
【本文書き出し】
”プロローグ
事件は未解決のまま終わろうとしていた。
警視庁人事一課監察係の剣崎主任は、本庁舎十一階にある自分のデスクにつき、苛立ちを抑えながら報告書の作成にかかっていた。パソコンのキーボードを叩く指は、ミスタイプを繰り返した。
「馬鹿げた事件だったな」
部下の西川が、誰にともなく言うのが聞こえた。剣崎よりも十歳も年上の西川は、普段からこちらの気に障るようなことを平気で言ってのける。それも上目遣いの一瞥を投げながら。おそらく故意にやっているのだろう。
机を並べているもう一人の部下、小坂が、童顔に眉を寄せて頷いた。「うちが扱う事案じゃなかったんですよ、きっと」
剣崎は二人の部下を眺めた。時代劇に出てくる悪代官のような顔つきの西川と、ベビーフェイスの小坂。これに上場企業の勤め人といった風貌の剣崎を加えた三人組は、とても刑事には見えない。彼らのいるこの部署が、警察官らしくない捜査員をわざわざ集めているかのようだ。そんな想像があながち否定できないのは、剣崎が率いる人事一課監察係の捜査班が、警察内部の犯罪を摘発するという特殊な任務をおいているからだった。一班が三人編成なので、机を並べているこの三名が最小の捜査ユニットである。今回、彼らが担当することになった事件は、過去に類例のない異常な事件だった。
変死体の盗難—
剣崎はパソコンのモニターから顔を上げ、窓の外に広がる東京の夜景に目を向けた。
一千万人を超える人口がひしめく大都会。この中に、死体を盗み出した何者かが、息をひそめて暮らしている。
誰が、何のために?
近年、目立って増えてきた無動機型の殺人、いわば殺人のための殺人は、小動物の虐殺といった前兆を伴うケースが多い。猟奇殺人鬼は、来るべき殺戮の前に、兎や猫などの小型哺乳類を相手にリハーサルを繰り返す。剣崎が懸念しているのは、今回の変死体の盗難が、そうした凶悪事件の前兆ではないのかということだった。そうでも考えなければ説明がつかない。もしも犯行が警察官によるものだとしたら、今のうちに将来への禍根は摘み取っておかなくてはならない。
剣崎はパソコンのモニターから顔を上げ、二人の部下に言った。「最後にもう一度、事件の流れを確認しておきたい」…”
”第一部 提供者
1
鏡の中で、悪党面がこちらを見返していた。後ろに撫で付けられた黒々とした神、狭い額、そして平行線を描いた細い眉とまぶた。
八神俊彦は自分の顔を眺めながら、いつからこんな面構えになったんだろうとため息をついた。
年月って奴かも知れない、と八神は考えた。中学一年の時に、近所の文房具屋で消しゴムをくすねてから、こつこつと積み重ねてきた悪事が自分の顔を変えたのだ。あれから二十年、まだ三十二なのに十歳は年嵩に見える。悪党とプロ野球選手に老けた顔が多いのは、どちらも気苦労が絶えないせいだろう。
八神はユニットバスの洗面台から離れ、六畳の洋間に戻った。このワンルームマンションに入居して三ヶ月、金もないので家財道具も満足には揃っていない。
フローリングの床の上に直に敷かれた布団に寝転び、枕元のFAX用紙を手に取った。それは入院案内書だった。
『六郷総合病院』。京浜急行本線、六郷土手駅より徒歩十分。
明日からの入院を考えると、悪党の顔にも自然と笑みが浮かんだ。生まれ変わる絶好のチャンスだった。願わくは、明後日に迫った手術が、自分の薄汚れた人生に区切りをつける転機になってほしかった。
そろそろ入院の準備でも、と体を起こしたところで、携帯電話が鳴り始めた。着信表示を見た八神の胸は、さらに高鳴った。六郷総合病院の担当医、岡田涼子からだった。
「はい、八神」
受信すると、医師といいう職業にはミスマッチな、可愛い声が聞こえてきた。「岡田です。いよいよ明日ですね。よろしくお願いします」
「こちらこそ」と八神は、日頃は使わない丁寧な言葉遣いをした。
「体調はいかがですか?」
「万全だ。精力を持てあまして鼻血が出そうだ」
岡田涼子は軽く笑った。電話の向こうの美女の笑顔を想像して、八神は気を良くした。
「明日の九時までに行けばいいんだな?」
「ええ。スタッフ一同、お待ちしてます」
「それで」と、八神は少し真剣な顔になった。「俺が助ける相手については詳しくは教えてもらえないのか?」
「移植が済んだ段階で、性別や年令などはお教えできますよ」
「若い姐ちゃんならいいんだが」
冗談めかして鎌をかけたが、相手は乗ってこなかった。「入院中の面会規則などは、今、お教えしておきましょうか?」
「いや、いい。誰も面会なんかには来ない」
「お友達とかにお知らせしてないんですか?」
「こういうことは悪事と同じで、こっそりとやるもんさ」
女医はまた笑った。八神は、コメディアンの充実感を味わった…”
【表紙及び冒頭5ページ】
【基本データ】
角川文庫
平成二十四年二月二十五日 初版発行
高野和明「グレイヴディッガー」
ISBN978-4-04-100164-6
”この本、読ませてみたいな”と思ったら